玉川上水〜羽村取水堰

 たまには人の役に立つこともかいてみる。東京で4年の社会というと玉川上水が出てくる。今日は天気もよくなったので玉川上水の始まりである羽村取水堰まで行ってみた。その近くにある郷土資料館は期待はずれ。時間があれば「まいまいず」まで足を伸ばしてもよかったのだが、出発が3時頃だったので日が傾いてきてしまいあきらめた。
 玉川上水ができる頃の江戸は、人口が急激に増えていた時期でもある。副読本の資料によると、1600年頃の江戸の人口は15万人。それが1720年頃は105万人まで増えている。日本の人口も急激に増加していて、1600年頃は1200万人なのが、1720年頃には3100万人まで増えている。105万人といっても、子供たちにはぴんと来ない。そこで世界の大都市と比較してみる。同時期のロンドンの人口は60万人、パリが70万人、ニューヨークに至っては1万4千人というのだから、いかに江戸が大都市だったかが分かる。他の100万都市は北京ぐらいだったようだ。産業革命が起こるまで、江戸の人口を超える都市は出なかったようだ。
 玉川兄弟に幕府が出したお金は6000両。これも調べてみると、1両が6〜7万円だったらしい。最小単位のお金1文がおよそ10円と計算して、だ。茶屋で団子を食べるのが10文、そばが16文。6000文〜7000文が1両にだったことを考え、およそ6〜7万円だと計算できるようだ。(金の価値は変動相場制だったらしい)……ただし、1両の価値は調べてみるといろいろあって、どれが正しいというのは分からないのが正直な所。
 1両で1石=米150kgが買えたらしい。1人1食当たり1合を食するとすれば、1日で3合、1年で約1,000合(1石)となる。他の資料を見ると、4人家族で1ヶ月暮らすのに1両が必要、ともあった。生活全般で見るとそんなものかも知れない。ちなみに玉川兄弟、玉川上水建設の後に侍として200石の扶持が与えられている。
 ということで、1両6〜7万円として考えると、6000両というと現在の価値で3億6000万円から4億2000万円くらいの価値がある。玉川兄弟もやる気になるよね。これだけ金もらって天下の大事業を任せられるのだから。ところがその工事、幾度か挫折をしている。日野から引水しようとして関東ローム層に水を吸い取られて失敗。福生から引水しようとして固い岩盤に阻止されて失敗。とうとう幕府が技師として安松金右衛門を投入し、羽村からの引水で玉川上水を完成させたというわけだ。……そう考えるとエライのは安松金右衛門であって、玉川兄弟ではないのでは……(^_^;)。
 玉川上水は江戸の飲料水としてだけでなく、武蔵野の新田開発にも役立った。自分が住んでいる西東京市だが、ここはもともと水がなかった土地で、東久留米の黒目川辺りには古代人の遺跡などもあるのだが、この辺には見られないらしい(西東京の郷土資料館の人に聞いた)。国分寺の方まで行くと、国分寺崖線でわけられた武蔵野台地の段丘面がわかる。そこからは湧水もあるし、多摩川の支流となる野川もあるので、崖線の下には昔から人がすんでいたことが想像に難くない。しかしまあ、水のない武蔵野台地は……だれも住まないわな。地表面から水までが遠く、地盤も軟弱なので井戸を掘っても崩れてしまう。高度な井戸掘り技術もない時代に「まいまいず」と呼ばれるぐるぐる巻きのすり鉢状に掘る井戸があるのも、武蔵野台地の特徴だ。
 33もの分水が作られた玉川上水によって、武蔵野台地に水が引かれて活発な新田開発が行われたことは、増大した江戸の人口を扶養するに役だったに違いない。今では小平の監視所から東村山浄水場まで導水されている所までが「上水」としての役割をもっている。それ以降にも野火止用水千川上水など、さまざまな支流もあるが、今では親水公園としての役割を得て市民の憩いの場となっている。
 玉川上水の管理を玉川兄弟とその子孫が世襲で行っていたのだが、三代目になった時に賄賂で不正があったため、玉川上水の管理の仕事を罷免されてしまったらしい……あわれ。悪いことはするもんじゃない。真面目に仕事していれば食いっぱぐれのない仕事だというのに。
 以降は羽村取水堰あたりの写真。ウィキペディアの「玉川上水」の項目にもいい写真があるので、そっちの方が資料としてはいいかも。なんか間違っていた事書いていれば教えてくだされ。



上の三枚は小金井近辺の玉川上水の様子。



羽村取水堰の全景


取水堰を内側から見た所


第三水門(ここから小作浄水場に導水している)


取水堰からすぐの玉川上水の様子。


玉川兄弟の銅像




その他資料になりそうな写真



おまけ。コスモスがきれいだった。地元の子たちのちょうどいいデートコースって感じだ。