怖かった

 人魚姫の本は、女の子が道具箱の中にしまい込んでいて取れなかった。いまかなりブームらしい。やれやれ。

 今日、帰りの駅を降りてコンビニに入った。明日の朝飯とビールを買い、マガジンとサンデーを流し読みしていると、突然ドアをものすごい勢いで蹴り開けて酔っ払いらしい男が入ってきた。「あーあ」と最初は思っただけだったが、どうも様子がおかしい。レジに一直線に向かい「てめーかこらあ!土下座しろこらあ!」とレジや棚をガンガンに蹴っていた。あまりの勢いに店内の時間が止まったような気がした。凍りつくように立ち読みの人たちが自分のもっている本に目を落とす。僕もまたそのうちの1人だった。
 ただの酔っ払いがきただけかと思っていたが、一過性のもので終わらず、なんだか気配があやしい。そこら中のものに当たり散らし、1人の店員をレジから引きずり出し始めた。なんだかいてもたってもいられず、ものすごいドキドキしながら店を出て警察に通報した。自分の一生の中で初めての110番通報だった。店の中では男がさらに棚を蹴り、店員は男に土下座している。とにかく警察が来るのを待っていると、二人の警官が走ってきた。待っている間、膝が震えていたことにやっと気がついた。
 通報しただけとは言え、はっきり言って安全圏にいただけなのにも関わらず、あまりの緊張に膝が笑って、心がものすごい苦しかった。コンビニから出てきた男女が笑いながら「誰か通報したよね、さっき携帯もった男の人が出てったから」と話していた。最終的には男も収まりがつかなかったのか、さらに応援にきた数人の警官に囲まれてパトカーに連れていかれたが、僕がすべて終わって帰り道に思ったのは、その男や店員よりも回りにいた人たちのことだった。
 僕だって凍りついて本を読んでいたし、知らないふりをしていたのは確かだ。はっきり言って当事者ではない。笑いながら歩き去っていった男女は何が悪い訳でもない。そして何より通報しただけでも僕自身がすごく怖かったのだ。通りすがりでいるのが、本当はすごく楽なのだ。
 最近話題になっているいじめ問題に、思わず職業柄置き換えて考えてしまう。立ち読みしていた人たちは、いじめの周りにいる人の立場なのかも知れない。関わり合いになったら、通りすがりでいられないクラスの中の出来事だ。もしかしたら自分が今度はいじめられるかも知れない。頭ではわかっているけれど、(僕がそうだったように)恐ろしさで膝が笑うだけではすまない恐怖がそこにあるのを嗅ぎ取っては、いじめをNOという心を「一歩踏み出すのは勇気」という一言ですますにはあまりにも乱暴だ。
 でも、やはり一歩でも踏み出さなくてはいけないのだろう。今日の僕はただ通報するだけの通りすがりだったけど、何もせずに通りすがっていたら、明日子どもたちに話す言葉を失っていたような気がする。こんなことをつらつら書いているということは、まださっきの興奮が体のどこかに残っているのだろう。もし子どもたちに危害を加える意図で誰かが僕の教室にきた時、ちゃんと僕はあの子たちの前に立てるだろうか。膝が笑わないで立ち向かえるだろうか。考えるだけで恐ろしいけれど、立ち向かえる人でありたいと思う。