学力テストシンポジウム(レポート)

 大学の同期のYoと一緒に、九段下の学力テスト問題のシンポジウムに行ってきた。シンポジストには苅谷剛彦藤田英典、中嶋哲彦などのそうそうたる学者連が名を連ねる。重要なのはこの集まりが、全国学力テストに不参加を表明した犬山市の教育委員も務める人たちだということだ。犬山市の教育委員が、全国学力テストに対してどのような考えで「NO」を言ったのかもまた、興味深いところだ。今回はその辺のことで自分用レポート書いた。
 学力テストというのは、今度4月に全国の6年生と中学3年生を対象に行われる学力調査テストのことをさす。この学力テストのキーワードは「悉皆調査」ということだ。悉皆とは聞きなれない言葉だけど、「しっかい」と読む。悉とは「ことごとく」であり、今回の学力調査を「ことごとくみなに行う」ということを示す。
 中島氏、藤田氏は、調査のためのテストであれば、悉皆調査ではなく抽出調査で十分統計的には目的を果たせるという指摘をしていた。それをあえて悉皆調査にしたということは、将来的には調査ではない目的に使われる可能性も大きいということだ。
 学校の評価、教員の評価にこういったデータが使われていくことになるだろうと、シンポジストたちは言う。PDCAサイクルのパーツの一つとして、文科省や都教委などにいいように使われていくだろうというのは、あまり周りの見えていない僕にも想像に難くない(PDCAサイクルとは、Plan,Do.Check,Actionの一連の流れの中で活動する方法)。しかし、学力調査をこれからするのにも関わらず、調査結果を待たずに再生会議などから教育に対する施策が出ていることなど、PDCAのサイクルは明らかに破綻している点がある(だったらテストなんか最初からするな、と言いたい)。さらに、このテストが教育バウチャー制度のパーツとして使われる可能性や、イギリス的な教育改革へのシフトも指摘されていた。
 学力テストが公開されるよになれば、学校選択制をしく地域の住人は学校を点数で選ぼうとすることになりかねない。ある地域では生徒が集まらない中学が3つ統廃合されることになり、あるマンションでは3人いる1年生の児童が全員別な学校へ通うことになったという。こうなると地域の格差化が進み、町のコミュニティは崩れていくだろう。それを多くの学者や教育関係者が言っているのに、なんで国はそれを進めるのだろう。なんだか安倍晋三はコミュニティを崩壊させ、学校を疲弊させることで衆愚政策をせっせと推し進めているんじゃないかと、穿った見方もしたくなる。
 学力テスト意外の調査用紙には児童生徒が自分の家庭の生活状況を記入するところもある。生活状況や文化的状況と学力との関連性を調べようとするとこのことは必要になるが、小学校ではそれが記名された状況で行われることも忘れてはいけない。さらにこのデータは文科省が扱うのではなく、小学校はベネッセ、中学校はNTTデータという一般企業が集計し、分析するのだ。日本全国の児童生徒の生活状況やテストの点数が限定された企業の手にわたるというのは、個人情報保護の観点からみても非常に危険だと言わざるを得ない。
 市場競争原理の立場で考えると、確かにこのテストは非常に「効率的」だろう。このテストは児童生徒の個別の差をはっきりさせ、どの教員のクラスが点が高いか明確にし、学校ごとの格差を数値で表すことによって、学校というシステムを「競争」する装置に変換していくことができる可能性を秘める。学校や児童生徒は競争にさらされて荒廃していくだろうけど、「競争システムとしての学校」から生き残って出てきた人材を国や経済界は求めているのかも知れない。
 PISAショックを含む「学力低下」論争もまた、このテストを後押しする一つではあるが、PISAテストを神聖視するのもよくない、というのはやはりシンポジストから出てきたことだ。PISAテストは15歳時点での市民としてのリテラシーを測るテストではあるが、学校や教育システムを評価するためのものではない。苅谷氏はまた一方で、テストを排斥するのもまたよくないということも言っていた。過去の学力テストにおいて、テストアレルギーとなってテストを一切捨て去ってしまったために、現在において適切にテストを分析・評価できる人が育たなかったというのも問題として取り上げていた。
 今回のシンポジウムで一番面白かったのは、やはり犬山市の学力テストに対するスタンスだ。犬山市教育委員会として「犬山の子は犬山で育てる」という意識で学力テスト検討したという。その結果、学力テストは子供にとってよくないものと判断し、参加しないということを教育委員会が決定したというのがすごいと思う。そういうことができるんだ、という希望がそこにはある。「学力テストは、文科省の枠に地域や学校を押し込めるものだと犬山は考える。これは権力の問題で、権力がメッセージをもってこういう学力を目指せと言うのは間違っている。教育の地方自治を犬山なりに手作りでやっていくのがいいことなのに、学力テストはそれをぶちこわすものだ」と言ってしまえるあたりがすごい。教育の持つ独立性は「まだ」生きている、ということが感じられたのは意義深いことだった。
 藤田氏が最後に「政治を変えていかなければいけない」と言っていた。難しいけれど、そうなのかもしれない。マクロには政治が変わらなければいけないが、ミクロには自分が変わることが大切だ。とりあえず、自分ができる一つの小さな積み重ねとして、都知事選はちゃんと「あれ」以外に投票しよう(^_^;)。